戦後70年
祖父は3回戦地に赴いて最後は捕虜となりイギリスで終戦を知った。
祖母は東京大空襲で特に戦火の酷かった地域から奇跡的に生還した。
戦争は怖い、戦争はひどい、もうやっちゃだめだ。
祖母は静かにそう言うだけ。
祖父に至っては、何も言わないまま逝ってしまった。
地獄のような経験を、誰にも話さないまま。
”知ろう”と思ったのはいつだったか、生まれ育った土地の図書館に、原爆の資料スペースがあったせいだと思っている。
焼け焦げたお弁当箱や、衣服だっだであろう布きれ、写真、文字
小学生の心にショックを与えるには十分すぎた。
それから、これまで沖縄戦や大空襲についてたくさん手記を読んできた。
いつも読めるわけではない、心に余裕があるときだけだ。
だってのまれてしまう。けれど、それでも少しでも、そういうものにたくさん触れるように心がけている。
目を背けないで知らなければいけないと思った。日本人として、何があったのか。
だって、知ろうとしなければ、誰も知らなくなってしまう。
いいとか、悪いとか、何に賛成で、何に反対かとか
その前に、知らないといけないと思った。
でも、知ることは難しいということも分かった。
いろいろな場所にも行った。
初めて家族そろって沖縄旅行に行ったとき
最後の最後に、私がどうしても行きたいとわがままを言った。
タクシーの運転手さんが、飛行機に間に合うようにぶっ飛ばしてくれた。
丘には、故郷である長野県から、兵隊に行って戦死した人の名が刻まれていた。
海もない、山だらけの美しい土地から
こんな遠くの、海が美しい土地まで来て、戦争で亡くなったんだと思ったら涙が出た。
信濃の国という故郷の歌を、祖母と碑の前で歌った。
碑に手向ける花を売るおばあさんと、その色鮮やかな花束の記憶が鮮明に残っている。
戦後70年になった。
おばあちゃんに、話を聞いてみてもいいだろうか。
ぽつりぽつりと話してくれるその内容は、頭の中の地図と照らし合わせると
とてもとても、その先を聞くのが憚られるようなものばかりなのだ。
そんな記憶を思い出させてしまってもいいのだろうか。
ずっと答えが出ない。
それでも母親になって、今一度思う。
私はこれからも、知ろうとすることをやめない。
ちゃんと心がけて、目を背けない。
子どもたちにも、知ってもらおうと思う。
いや、一緒に知っていこうと思う。
これだけは絶対曲げない、自分との約束。